昭和52年9月26日 朝の御理解
御理解第16節
「無常の風は時を嫌わぬというが、金光大神の道は、無常の風が時を嫌うぞ。」
勿論これは仏教的な言葉です。無常の風。例えば無常の風が吹いてきても、それを向こうの方へ吹き返すほどしの力が、金光教の信心にはあるんだと、ま教祖が仰っておられるのでしょうね。いわゆる金光大神の、いわばご神徳である、力である。けれども今日は、そこんところを、無常の風は無常の風として受ける、受ける心と申しますか。無常の風といえば、ま死ぬると言う事でございましょう。どんなに健康を誇っておっても、無常の風が吹いてきたら、どうにも仕方がないないもの。お迎えが来る。
「いいえ私はもう暫く」と言うたところで仕方がない。それこそ明日に(こうがん)夕には空しゅうなっておる。はあ朝まではあんなに元気だったのに、もうころっと亡くなんなさったげなというのが、それじゃなかね。それこそ空しく変じていくわけです。そこでまぁそれを、まあ無常の風というわけでしょうけれども、私は無常の風即有情であると悟るところに、この御教えの素晴らしさは大体あると思うです。
助からんところを助けて頂く。そういう例えば四神様の言葉の中にも、「ない命でも3度までは助ける」と教えられたと言う事ですから、無常の風が吹いてきても、また吹いてきても、けれども、(じぎょう)というものは、またとばかりにはいかん。やはり無常の風が愈々吹いてくれば、どうにも出来ない事であるけれども、その無常の風と思われる風を、有情であると悟らせて頂くところに、私はこの信心が、この16節の御教えが生き生きとしてくる。
本当は金光様のご信心はこれだと。いやほんとに合楽的な受け方というのは、無常即有情であると悟らして頂くところではなかろうかと思います。それを合楽で、「一切神愛」と説きます。そしてここに「絶対」という言葉を使って言えれることの中に、それは死ぬる生きるということでも、降るとか照るとかいうことでも、信心しておるから降らんとか照らんとかということはない。降りもすりゃ照りもする。
信心しとっても病気をする災難にも遭う、またあっという間にあんな手厚い信心しとった方が、あっという間に亡くなったと言う様な事もあるわけ。けれどもね私はそういう、まあふつうでいう難儀というものがです、難儀と見らずに神愛と見る。無常と見らずに有情と悟らして貰う所に、これはもう絶対もう絶対の力、絶対のおかげが受けられると言う事。これ私の体験からいうと、本当にそれが言えれるんです。困ったと言う事の後には、必ずこういうおかげを下さるために、あの困った事があったんだという。
私はいつも申しますように、弟の戦死。「これほど信心するのに」と言う事もないけれども、まあ一生懸命の信心をさして頂いて、一家をあげてそれが弟が、いわば終戦15日前に戦死をしたと。もうこんなに情けない事悲しいこと、とにかく神様にお恨みの一つも申し上げたいようなこと。けれどもその受け止め方がです、そこから今までの信心が本当の信心じゃなかったな、真の信心じゃなかったなと、いよいよ強く思わせられた。外地から引き揚げてくる一切合財を、あちらに置いて帰って来る。
裸同様で家族4名の者が帰って来た。そういう例えば難儀に直面致しました時に思うたことは、おかげを頂いてきた。けれどもおかげを頂くだけで信心を頂いていなかったな、と言う事に気づかせて頂いて、「真の信心とは、真の信心とは」と、真の信心を目指さして頂くようになった。帰って来てその翌月に弟の公報を受けた。もう愈々一段とそのことを通して、真の信心がなかった証拠だなと思わしてもろうて、真の信心を目指して信心修行に、まあいわば励まして頂いた。
私がもしそんなら戦争が、敗戦では負け戦じゃなくて、当時の北京時代におったらそれは成程、今の合楽より沢山の財産を築いとったかも分からない。けども現在のような有り難いことにはなってなかっただろうと思う。そういう例えば難儀とか、もう取り返しのつかないほどしの悲しい事に出会いましてもです、今から考えてみるとほんとに無常の風であったでしょうけれども、その無常の風を有情であったと分からしてもらう。一切神愛であったと分からしてもらう。
そこからいうならばおかげが受けられるのが、金光様のご信心だというてもよい位だと。無常即有情である。そこでですそういう時に挫折したり、そういう時に萎れてしまったりと言う事ではない信心が、日頃求められるわけである。そこを日頃信心の稽古によらしてもらい培うておかないと、それを有情として受けられない。信心しよってもこんな事があるなら、もう信心なんかやめてしまおうと言う様な人すらがある。そういう場合は、やはり無常の風は無常の風であり、難儀はやはりそのまま難儀である。
信心というのはそういう、大きな例えば節に直面した時に、その節を元気な心で受けぬかせてもらう勢いというか、生き生きとした信心というか。それこそ真に有り難いという信心がでけておらないとでけません。昨日29日の研修でまあ皆さんのいろいろお話を聞かせて頂きました。昨日この霊祭の模様がビデオで撮っておられましたから、初めにそれを見せて頂いて、まあいわば聞かせて頂いたわけですけれども。
私はあの祭りの模様と、それから若先生の、まあ前講的な短いお話と、そして私自身がお話を皆さんに聞いて頂いておる、お話を聞き終わった時には、もう頭がぼうっとなってしまってね、もうぼうけるちゃこんなことだろうと、皆さんに話したことでした。皆さんはどうでしたか。私はまあ有り難いお祭りを頂いて、有り難いお話を頂いてもう。、もう恍惚となって(笑)しまってね、一時ばかりお話が出来んくらいに、頭うちふらんならんくらいに感動しておりました。
やっぱりもう頂き留め方というのは、そういう頂き方でなからにゃいかんですね。なるほど、霊祭の時にも頂いたけれども、これは皆さんのね改めてもう一遍頂くと、また改めて素晴らしいことが分かりますねというてま、お話ししたことでした。随分やっぱ長いお話になりますから、もうその間に本当にもうぼうっとなってしまった。そりゃもう気力が抜けたというのじゃなくてですね、もう有り難さに酔うてしもうとった。
そういうほどに、例えば有り難かったにも拘らずです、いつどこからぬけていくのか、帰った頃にはその有り難さがもう薄うなったり消えたりしておるというのは、どうしたことであろうかというわけです。ま、そのへんのお説教の中にも申しておりますように、この有り難さが、どこからどういうふうにぬけてしまうか。それは我情奴だ我欲奴だといっておりますですね、霊祭の時のお話の中に。その我情奴が我欲奴が、その有り難いというものを吸収してしまう吸い取ってしまうんだ。
だからやはり我情を取る愈々けいこを、我欲を離れるけいこをさしてもらわなきゃならない。その我情我欲を取るということも、合楽理念のいうならそれををもって、それを手立てとするならば、楽しゅう出来るんだけれどもね、と言う事でございました。中に伊万里の竹内のお母さんがお話をしておられました。ここでその通りのお届けがあったことを、また聞かしてもらったんですけれどもお夢を頂いた。それがちょうど竹内一家の方達が皆、こう食卓を囲んで座っておられる。
そこへ竹内先生の妹さん達夫婦、熊本におられますも一緒におる。そしておばあちゃまが亡くなっておられるということを、感じながら分かっておられるのだけれども、やはり同じところに食卓についておられる。そしてそのいうなら竹内先生の妹夫婦に向かって言っておられるけれども、それを皆でそうだなと思ってる。「○○さん、あのおかげ信心じゃ、いよいよつまらんばい」っち。「真の信心をせにゃ、もう愈々つまらんばい」と、それを繰り返し言っておられる。
それでその夢を頂いておられる、そのお母さんもですもうほんとにそうどころじゃない、おばあちゃん最近合楽で言われることは、もうおかげ信心からいうならば真の信心を目指さなきゃという、そのお話ばっかりですというて、あのまあお話をしておる。そしたらあの正教先生の弟であります、和教さんがもう愉快そうに有り難そうに、もう大きな声で、それを聞いて笑っておるところであった、というのです。
いわゆる「和教」と申します。和らぎ教えと書いて和教と読む。おばあちゃまがいうならば子供達に、もう愈々おかげ信心じゃつまらんばいと。もういうならこちらのこの世あの世というか、いうならば御霊の世界にきてもう愈々痛感することは、おかげ信心のつまらなさを愈々分からして頂いた。あんた達は愈々真の信心せにゃという意味のこと。お母さんもそれどころじゃありません、最近の合楽ではもうこのことばかりがお話に頂いておりますとこう言う。
それをあの和教が、もうそれこそ、まあ喜びとも愉快ともつかん、もう大きなその声を出して笑っておるところであった、とこういうのです。金光教の信心はもうこの和らぎの心を教える宗教というてもよいでしょうね。どんな場合であっても「打ち向かう者には負けて時節に任せ」と言う様な生き方が、お道の信心のあり方。それからまたその次にお夢を頂いた。というのは奥の間で竹内先生が一生懸命、お花を活けておられる。それが全部造花ばかりである。いわゆる造り花である。
「はぁあなたもそんな花を活けなさらんでん、お母さん自身がお花の先生をなさるお年ですから。」と言うておるところで目が覚めた。
ほんとに合楽理念を本気で行じておられる、皆さんもご承知の通りの、いうなら竹内先生を、皆さんが知っておられる通りである。だからおかげも受けておられるけれども、これを神様の目からご覧になると、本当の瑞々しい花ではない、造花のようなものだと。神様の目からご覧になれば、まあそう厳しくなる事でしょう。自分達は本当のものの様に思うとるけれども、本当のもんじゃあない作りもんだ。けれどもやはり求めておる所は活けあげる事であり、求めておる事は本当の信心をと言う事でである。
だから、これをなら私にそれを置き換えてもいい。「真の信心、真の信心」と言うておるのは、私の自身の信心が実際は、いうなら造り花的な信心かも分からない。けれども願っておること求めておることは、より本当なことを分からなければならんとしての信心ですから、神様はほんとなものはでけてないけれども、本当な事がでけたかのようにして、おかげを下さる。
本気で合楽理念をマスターせねばという願いに、いうならば燃えるものを持っておるけども、そりゃ人間生身であり凡夫の事ですから、なかなか遅々としてはかどらんのであるし、本当のものようであって作り物である、と言う事を自分がやはり自覚させられます。それでも求めておる事は、本気で求めておるから、神様はそれをもうでけたかのようにして、おかげを下さってあると言う事なんです。
そこで私共が銘々の信心に、それこそ自分の胸に手を置いてみて、果たして自分の信心は、そういう瑞々しい本当な、いうならば喜びの花が心の中に咲いておるかどうか。殆どが造り花ではなかろうかと、自分でも分からしてもらう。けれどもね、あのそれで留まっておったら造り花で終わるのですけども、もう止むに止まれん思いでほんとのものからほんとなものへ、追い求めていくというか追求するという心は、誰にも負けない。これでよいとは思いませんと言う事である。
本気で合楽理念をマスターし、合楽理念をほんとに身に付けようという願いだけは本気で持って、一分ずつでも一厘ずつでも、それに迫っていく信心というものがでけておる。願いというものは、そこにいつも置いてあると言う所にです、私は神様のおかげが頂けるのである。本当なものがでけていなくても、本当なものがでけたかの様におかげを下さってある。まあそれが合楽というてもよいかも知れません。もうほんとによい、本当のより本当なものを頂きたい、という願いはもうそれこそ切です。
こりゃ私自身。是で良いと決して思いません。今朝ご神前に出てから一番に頂きました事は、ひまわりの花がみんなこう首をうなだれて、そのいっぱい咲いておる所を頂いた。そして例えばこの16節を頂いておる。そこで初めて無常即有情という心を頂いたのです。私ども信心さして頂きよっても、ほんとにこれが無常の風であろうかと思う様な事にも直面致します。「これほど信心するのに」と言った様な事もあります。
けれども日頃生き生きとした信心、真の信心を目指さして頂いておるならばです。そういう時にそれを一切神愛として合掌して受けていく生き生きとした心が、そこにある訳です苦しい事悲しい事様々ありましょう。けれどもそこをそういう生き生きとした心で頂きぬいた所にあるのが、成程神愛だったなと言う事を実感するのです。成程「難はみかげ」難あって喜べと教えられるが、難そのものは難ではなくて神愛であると言う事を分からして頂けれるだけの信心が、日頃でけておらなければならないと言う事。
ここには所謂、私が言う絶対の道が開けてくるわけだ。信心しよってもやっぱり難儀なことがある。けれどもその難儀な事を、難儀とせずに神愛と受けて、「これはまあだ自分の信心が足りんのだから」。と一段と信心をしていけば、そこからのおかげはもう絶対だというわけです。今日の私御理解の中からね、本当に無常の風を私共が無常の風。神様が氏子可愛いという、ご一念の現れであるという頂き方の出来れる、信心をしておかなければならない。
それには何時も本当なものを目指さしてもらう信心。そして実際は本当な事はでけとらんけれども、目指す事だけは目指しておる。またそれにに精進しておる。所が本当なものではなくても本当なもののようにして、神様はおかげを下さると言う訳であります。これは信心にもう本当の信心に、「絶対これだけは」というのはです、私どもがもう楽な方から楽な方へと堕ちてゆくような信心には、今日私が申します難をおかげとして受け止めれる、いや難を絶対の力にしよう、おかげにし得るものは生まれません。
いうならば暑い時に、日陰のほうへ日陰のほうへと、楽な方へ楽な方へと道を辿る様な事では、愈々の時に挫折してしまう。いやそれをただ難は難で受けなければなりません。難をみかげにする難を力にする、お徳にするというほどしの信心。無常即有情であると分からしてもらえるほどしの信心とは、私どもがね夏の日にいうなら暑い方へ向かって、暑い方へ向かって進んでいく、そういう信心の姿勢が必要なんです。
日々の御用でもです、楽な仕事ときつい仕事があるなら、そのきついほうの仕事を取っていけという生き方です。自分の心にいわば楽をしたい、楽をしたいという心を、いうなら献上して、そして「楽はせんぞ」という心にならせて頂く時に、楽はさせずにはおかん働きが生まれてくる、体験者にならなければいけないと言う事です。信心してひとつ楽になろう、信心して楽になろうというのじゃいかん。
信心して愈々極楽を頂こうというのでなからにゃいかん。いや極楽以上の合楽を頂こうという気にならなければいけない。そのためにはまず極楽を頂き合楽を頂く事のために、「楽はせんぞ」という気にならなければいけん。いつも修行の心が心ん中に生き生きと動いておらなければいけない。それはひまわりがいうなら、太陽のいや日照りの方へ向かって咲いて行く様に。
私共の心の中の、いうならばひまわりの花がです、首うなだれて萎(しお)れて折る様な事では、今日私が皆さんに聞いて頂くような、無常を有情と頂けれるものは生まれてこない。無常を有情と受け止めれる時に、もうこれは絶対の道がそれによって頂けれる力、ご神徳を受けるとは、そういう生き方をいうのであると言う事でございます。竹内先生のその夢を2つのお夢を、愈々こう玩味さしてもらう。
初めて成程無常即有情であるという信心。是は本当に無常の風に時を嫌わす程しの力があるのが、金光教の信心だと私は思うんですけれども。その無常の風を向こうに追い払うほどしの力というものは、私共はまずは無常即有情が悟れてから、その後のものであると私は思います。そし私の心ん中からね楽な方へ楽な方へと、言うならばドライな信心と申しますか割り切った考え方。それでそんなら決してどうと言う事はない。
けれども私どもは今日の御理解の所を頂こうと思うならば、その楽をしようという心があったら、それこそはっ「もう楽をしようとしよるな」と思うて、楽ではない方を取らして頂くような生き方を、愈々身に付けていかなければならん。今日私がお知らせに頂いた、沢山なこう咲いてはおる。ひまわりの花が咲いておるけども、だいたいあの花はこううなだれとりますけどもね、そん首をうなだれとる具合いがもう、あの幹の所からこうやってこう曲っとるとじゃん。こげんうなだれとるとじゃん。
だからこれが、合楽全部の信心者の姿ではなかろうかと、まず思うてみてたしかに朝は、あれほど有り難く生き生きとしておったのに、昼が伴ったらこうなってしまっておるというのはもう、まさしくその通りなんですから。それにもう朝からもう眠うしてこたえんっちゅう様な事では、もう愈々いけない事が分かりますよね。せめて朝の一時だけぐらいは、瑞々しい生き生きとした心の状態で、そしてほんとにそれこそ昨日の私じゃないけども、お説教を頂いた後にです、もうほんとにぼうけるぐらいに、ボヤーッとなるくらいに有り難かった。
その有り難いのが、いつどこからぬけているのだろうかと。それがいうならば我情奴だ、我欲奴だと悟らして頂いて、愈々我情我欲を取り除かして頂くおかげを頂いて、それこそ瑞々しい生き生きとした信心でないと、節に当たった時に節からそこまでで行き詰まったり、または節から折れたり節から芽が出る。節を大事にすればそっから伸びると言われておる。伸びる事のないいうなら堂々回りの信心しか、そこにはない事になります。それを頂く抜く生き生きとした心を、常日頃養うとかなきゃいけないと言う事ですよね。
どうぞ。